2018年06月08日

第12主日 キリスト者

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posted by かたつむり at 18:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月26日

フリートリヒ王の肩書き「 大内膳頭 」について

吉田隆先生の「ハイデルベルク信仰問答」に付されていますフリートリヒ王による信仰問答の序文に、自らを「大内膳頭また選帝侯」と記す部分があります。「大内膳頭」とは何なのか?たずねられて、ウィキペディア等でですが調べてみたのです。

選帝侯とは神聖ローマ帝国王に選ばれる権利を持った王たちのことですが、神聖ローマ帝国には Erzamt(エルツアムト)と呼ばれる宮廷の職制がありました、それらは純粋にシンボル的な意味しか持っていませんでしたが、またそれは、帝国国王の戴冠の際にはその式典の職務を担ってもいたようなのです。

それらは皇帝カール4世が1356年に発布した GoldeneBulle(金印勅書とも訳されるそうです)により、この Erzamtが以下のように定められたのです。

Erzkanzler(エルツカンツラー、宰相/大書記官長)には、3人の聖職者の選帝侯マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教から。

また3人の世俗の選帝侯ベーメン王、ライン・ファルツ伯、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯は以下の4つのエルツアムトを担う。

ライン・ファルツ伯が Erztruchsess。Truchsess(トゥルーフセス) は、本来食事を担う者、君主の食卓の責を担い、また客をもてなす役割を担う。英語で言えばステュワード。

ザクセン大公が Erzmarschall。Marschall(マーシャル)は軍事を担う者であるが、本来は、君主の乗馬を司る者、君主の馬房の責を担う者の意味。

ブランデンブルク辺境伯が Erzkammerer。Kammerer(カマラー)とは財政を担う者。もともとは金庫の鍵の責を担う者。また皇帝の戴冠の食事では手を清めるための一皿の水と布を差し出したため、皇帝の代理人の役も担う。

ベーメン王が Erzmundschenk。Mundschenk(ムントシェンク)とは主人の杯の責を担う者。もともとの意味は給仕であり、特に主人が飲むワインの責を担う(創世記ヨセフ物語にファラオの給仕の長が出てきますが、Mundschenkと記されます)。(Wikipedia独「Erzamt」参照)。

この Goldene Bulleにより、アーヘンが戴冠式の行われる町、フランクフルトが皇帝が選ばれる町と定められ、これにより教皇の影響が閉め出されることともなり、1806年の帝国の終わりまで有効でありました。

フリートリヒ王はこの Erzmundschenkの肩書きを持っていたようですが、さて一方、内膳司(ないぜんし)というのは、日本の律令!!による官制で、天皇の食膳を担当し「大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、饗宴における食事の調理と配膳を担当する大膳職と分かれて、天皇の日常における食事の調理と配膳および食料の調達を担当する官司として設立された」(ウィキペディア「内膳司」)そうなのです。

つまり君主の食事を担うというところから Mundschenkの訳語ととして「内膳」が用いられ、その最高位の職務が Erzmundschenkと理解され、》大《 内膳 》頭《と訳されたようです。

………「トリスタンとイゾルデ」の中に「内膳頭」の訳語があるようです。おそらくErzmundschenkの訳語のようです。どうも背景にドイツ語の訳語の伝統がありそうです。
posted by かたつむり at 22:12| ハイデルベルク信仰問答 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月01日

ハイデルベルク信仰問答を読む 第8主日



ハイデルベルク信仰問答の第8日目の箇所は、とても短い問いと答えとからなっています。

第8主日
問24 この信仰告白はどのように分けられますか。
答 三つの部分に分けられます。
第一は、父なる神様とわたしたちの創造を扱っています。
第二は、子なる神様とわたしたちの救いについて。
第三は、聖霊なる神様とわたしたちの聖化についてです。


この信仰告白とは使徒信条のことです。使徒信条が分けられる。三つに分けられると言っているのです。

まず最初に、信仰告白を分ける、使徒信条を分ける、というところにとまどいを覚えるかもしれません。もちろんそれは、ハイデルベルク信仰問答は教科書でありますから、教えるために便利、教えるために益になる、という便宜上、教育的な意味もあるのです。

加えるに、「信仰告白」と訳しました言葉は、もともとArtikelという言葉で、これは条項、箇条という意味の言葉で、英語のarticleという言葉です。ですから吉田隆先生の訳では「箇条」となっていますし、竹森満佐一先生は、説明的に「信仰箇条」と訳されていたのです。私はかつて1997年版のハイデルベルク信仰問答にならい「信仰告白」と訳しましたが、今、オリジナル版から訳し直す作業をしておりますので、「信仰箇条」と訳し直そうかと考えているのです。

これはもともと法律などの条文について、条項などの意味で用いられる言葉ですから、私どもの使徒信条は、いくつかのことについて、でもキリスト信仰のもっとも大切な内容について、ひとつひとつ条項にわけて言い表しているのだということです。ですからこの条項からこの条項までは、このことを、そして次の条項からは、次の事柄について、といくつかの固まりに分けることができるはずなのです。そのことについて言っているのです。

その三つとはまず、第一は、父なる神様について、第二は、子なる神様について、第三は、聖霊なる神様についてであるということです。難しいことではありません。使徒信条は三つに分けられて、最初に父なる神様、次に子なる神様、そして聖霊なる神様について記しているということです。そして大切なことは、すべてについて神様とはっきり言い表していることなのです。

そしてもうひとつ大切なことがあります。

第一の父なる神様についてが、私どもの創造を扱っていること。
第二の子なる神様については、私どもの救いについて、
第三の聖霊なる神様についてが、私どもの聖化について扱っているということなのです。

これからこの分け方、またこの考え方に従って、使徒信条の言葉をひとつひとつ、味わい学んで行く、それが、このハイデルベルク信仰問答第二部わたしたちの救いについてであるのです。

次の問25も短い問いと答えです。

問25 神様はただおひとりであるのに、どうしてあなたは、三つ、つまり、父、子、聖霊と呼ぶのですか。
答 なぜなら、神様は御自身を、みことばにおいて、その様にあらわされたからです。つまり、この三つの異なった人格が、ただおひとりの、まことの、永遠の神であることをあらわされたのです。


三位一体ということです。しばしばこの言葉は様々な分野で使い放題になっていますが、もともとは神様について言い表す言葉なのです。ドイツ語ではTrinitaet、ラテン語から来る言葉です。英語ではtrinity、ドイツ語ではDreieinigkeitと三つにして一つ、とそのままの言葉もあります。

とてもよく知られた言葉です。でもハイデルベルク信仰問答の中にこの言葉はありません。また聖書の中にもありません。でもとても大切な言葉であり、また私どもの信仰の言葉だと言うことも出来ます。

何度かお話ししたことがあるかと思いますが、私が学生時代、今からそれこそ30年前のことです。私が集っておりました東京の井草教会、その求道者会、受洗準備会では、1年以上かけてハイデルベルク信仰問答を学びました。当時は竹森先生の訳を使っておりまして、正直、大学1、2年生にはやさしくはありませんでした。またこの三位一体のところも決してわかりやすいことではありません。

当時の牧師であり、求道者会で教えてくださっていた熊澤義宣先生にたずねたのです。この三位一体について。すると先生はひとこと、これは「秘儀です」とおっしゃったのです。秘儀とはドイツ語ならGeheimnis、秘密です。ミステリー、神秘とも訳される言葉です。当時は先生ずるいと思ったのですが。実際、キリスト信仰の神様は、聖書の神様は、そうとしか説明できないということでもあるのです。

熊澤先生もそうされ、そしてまたしばしば言われることは、聖書の神様は、父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様の1+1+1=3ではないということです。そうではなく1×1×1=1でなければならない。この1×1×1=1が三位一体の秘密だというわけなのです。

一方で、この三位一体を批判の道具にする人もいます。他宗教、新興宗教、異端と呼ばれるキリスト教、そしてまたキリストの教会の中でも起こりかねない批判です。

そのような時にハイデルベルク信仰問答がすることは聖書の中にその引証をもとめることです。6つの箇所が挙げられています。

主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。(イザヤ書第61章1節)

ダビデの詩。賛歌。 わが主に賜った主の御言葉。 「わたしの右の座に就くがよい。 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」(詩編第110編1節)

イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイによる福音書第3章16−17節)

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(同28章19節)


繰り返し申し上げますが、聖書の神様はこうとしか説明できない。ですからそのよりどころは聖書だということなのです。

posted by かたつむり at 15:01| ハイデルベルク信仰問答を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする